夜。
 それは、昼間の喧騒が嘘のように消え去り、退廃的な欲望が街を静かに支配する時間。
 醜い欲望と、あらゆる思惑が交差し、人に数多あまたの絶望を与える時間だ。
 同時に、この世で最も美しいものを見せてくれる時間でもある。
 そんな人を狂わせる時間の中、一人の少女が街をゆっくりと歩いていく。
 といっても、その人物が本当に少女なのかは分からない。
 あたりが暗い、というのもあるが、一番は少女がフードをかぶりながら、俯きがちに歩いているからだ。
 それでも、少女と判断できたのは、女性らしい柔らかな体つきだったから。それしかない。
「…………」
 少女は無言で歩く。
 しばらく少女が歩くと、やがて大きな門が姿を現わした。
 少女は門の前で、ピタリと歩みを止める。
 どうやらここが目的地のようだ。
 俯いていた顔を上げると、少女は門に掲げられた紋章を見る。
 門に掲げられていたのは、四神のひとつ、朱雀とアルファベットのLが組み合わさった紋だった。
 『朱雀エルフィード学院』。
 そこが少女の目的地。
 少女に見つめられている学院は、眠っているかのように静かで、普段の威厳はまるでない。
 その代わり、普段にはない不気味さが漂っていた。
 しばらく、そのまま時間が進んだ後、やがて一筋の月明かりが少女を照らす。
 照らされた顔は間違えなく女性のもの。
 しかし、その顔には生気が感じられない。まるで人形のようだ。
 さらに時が進む中、やがて少女は小さく口を開いた。
「……ここで、何人犠牲になるのかしら?」


 6 接触


「今日で完治だよ、良かったねー。いやー、君がここに来た時はびっくりしたよ。血だらけ、火傷だらけでさ。にしても怪我治るの早いね、なんか特別な魔法?」
 いえ、単に体が強いだけです。
「ふぅん。まあ、どーでもいいか。君が元気になったことが一番大切だしねー。
 さてと、それじゃ元気でね」
 そう言って、俺の担当医の進藤しんどうさんは、くるりと体を翻して、病院の中に入っていった。
 あ、元担当医か。……まあいいや。
 俺は、そんなくだらないことを考えながら、一週間お世話になった雨月あまつき病院びょういんに一礼をしてから、背を向けるとゆっくり歩きだした。


 あれから一週間経った。
 あの戦闘のあと、俺は急いで雨月病院に運ばれ、ずっと治療を受けていた……らしい。
 らしい、というのは覚えてないから。ずっと寝てたのよ、と起きて混乱していた俺に、看護師さんが教えてくれた。それが四日前。
 で、俺は、そのあとずっと病院にいたってわけ。
 何してたか? ずっとリハビリだよ、チクショウ。
「はぁ……」
 俺は、普段よりも重い溜め息を吐く。
 そりゃそうだろ? ずっと病院で、リハビリと体の検査してたんだから。めちゃくちゃ退屈で仕方なかった。
 とは言っても、俺の体は順調(進藤さんが言うには、驚異的)に回復したから、通常よりもかなり短い期間で退院できたらしい。それだけは感謝。
「はぁ……」
 もう一度溜め息を吐く。
 あ、リハビリのこととかじゃないぞ?
 今度は人の多さに、だ。
 俺はぐるりと辺りを見渡す。
 人、人、人。人だらけ。楽しそうにしている人もいれば、早足で歩いていく人もいる。
 ここは、朱雀から五駅くらい離れた町。
 雨月町。
 様々な店や施設があり、ここら辺では最も人の通行が多く、賑やかな町だ。
 その証拠に、もう夜になる一歩手前の午後六時にもかかわらず、人はまったく減らない。というか、これからが本番と言わんばかりに増えている。
 四月にもかかわらず、正直暑苦しい。
 つまり、現在メインストリートにいる俺(しかも病みあがり)にしてみれば、この場所は不快なことこの上ない。
 あ、っ痛ぁ! また足踏まれた!
 しかも滅茶苦茶混んでいる。さっきから足を七回くらい踏まれている。
「はぁ……」
 また溜め息を吐く。
 そもそもここに来たのは、長い病院生活の憂さ晴らしに良い、と進藤さんに聞いたから来たのだ。
 なのに、足踏まれてるだけじゃねぇか!
 失敗だった。
 まさか、ここまで人が多いとは。
 憂さ晴らしに来たのに、憂鬱になっては意味がない。
 ふぅ、と俺は溜め息未満、呼吸以上に息をつくと、家(といっても仮屋)に帰るべく踵をかえした。


 しばらく歩くと、俺はある違和感に気づいた。
 その違和感は、ええと、視線、みたいだ。
 なんというか、『誰か』に見られている感じがする。
 いや、人間生きていれば見られることは当たり前だ。
 そもそも、すれ違ったりした人を見るのは普通のことだし、何気なく見てしまうことだってある。
 だが、この視線は何か違う。
 こう、たまたま見たとかではなく……、
(観察……か?)
 そう、実験動物を観察しているような、人間的な温かさとかがまるでない視線だったのだ。
 俺は歩みを止めずに考える。
 たぶん、十中八九、視線の主は俺に用だろう。
 最近戦った弐村や他のクラスメイトに……という可能性もなくはないが、それだったら本人のところに行けばいい。
 なのに俺、しかも、こんな平日(火曜日だ)に後をつけてくるなんて、よっぽどの暇人か、もしくは……
(また、厄介なヤツかな……はぁ)
 敵だ。


 ◆


 俺は今雑多なビルが並ぶ、雨月町のビジネス街の路地裏を歩いている。
 理由は単純、尾行さているから。
 尾行されてるから路地裏って意味わからん! と思うかもしれないが、これは正しい対処法だ。
 なぜなら、ここではいくらでも戦うことができるし、逃げることもできる。残念ながら『アレ』は家に置いてあるが、代わりに携帯、もとい、『札』に前回の戦闘以上の術式を構築してある。
 つまり準備万端ってことだ。
「……」
 息を潜めて、周囲の様子を探る。
「今日、飲みにいかないか?」「いいね、どこに行く?」「これから合コン行きましょうよ、先輩」「いや、私化粧とか手ぇ抜いちゃったんだけど……」「最近、課長厳しくないか?」「ああ、クビがかかってんだってよ」コツ「娘が冷たいんだ……この間、お父さんくさい、って」「俺なんかお父さんとも呼んでもらえないよ……」「今日はー月一のー給料日ー、ははは」
 後ろの方から聞こえてくる周囲の音。たくさんの会話。そして――
 一瞬だけ混じる足音ノイズ
 次の瞬間、頭の中の危険信号が一斉に鳴り響く。
 その危険信号ちょっかんに従い、体を横にずらす。
 瞬間。
 俺の頬を浅く裂いて、ナイフが横を通過していく。
 俺は急に出てきたその腕を掴み、同時に、空いている手で『札』を真横にある壁に押し付ける。
 数瞬後、『札』を押し付けた壁から、幾何学的な紋様が浮かぶ。
 その六芒星ヘキサグラム五芒星ペンタグラムなどが合わさった様な紋様は、一瞬、青く輝いたかと思うと、次の瞬間には消えていく。
「っ……!」
 後ろからの息をのむ気配。
 それを無視し、俺は問いかける。
「お前は誰だ?」
「……」
「何が目的だ?」
「……」
「誰の差し金だ?」
「……」
「俺が誰だか分かっててやってんのか?」
「……」
 反応なし……か……。
 仕方ない、ちょっと強めに訊いてみるか……。
 俺は軽く溜め息を吐くと、掴んでいる腕を強く握り始めた。
「お前は……誰だ」
「――!」
 メキ。乾いた木の枝が折れたときのような音。
「何が目的だ」
「あう、ぐぐ!」
 ミシミシ。
「誰の差し金だ」
「ぐぅあああ!」
 後ろからの聞こえてくる悲鳴が少しずつ大きくなる。
「俺が……誰だか分かっててやってんのか」
「あ! ああああああ!」
 ミシミシ……バキ。
「うああああああああああああああああああああああ!」
 辺りに響く絶叫。
 そして、ピクリとも動かなくなる俺の掴んでいる手。
 ……砕けちまったか。
 まあ、いい。
 俺がダランとした腕を放すと、凄い勢いで引っ込んでいった。
 腕が引っ込んだ方――つまり、後ろを向くと、見るからに怪しい黒フードが一名。
 フードで顔が隠れており、折れた方の腕をもう片方の腕で押さえている。
 そんな黒フードと俺には約五メートルの間があり、その間にさらに日本刀のように鋭い刃が壁から突き出ていた。俺が造ったヤツだな。
 俺は一通り辺りを観察し終えると、
「で? お前は誰だ?」
 いまだに俯いている黒フードに声をかけた。
「……」
 答えない。
「……はぁ」
   思わず、また溜め息を吐いてしまった。
 仕方ない、もう一回聞いてみるか。そう思い、一歩踏み出そうとした瞬間、
「っ!」
「あ! おい! ちょ、ま――」
 黒フードはその場で回れ右をして、全速力――かは分からないが、走り去って行ってしまった。
 呆然とする俺。
 しばらく固まったあと、
「……はぁ」
 俺は今日、何度目になるか分からない溜め息をついた。


 



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