俺がまだ『俺』じゃなかった頃、殺人姫の少女が愉しげに俺に話したことがある。
 曰く、「私は退屈で退屈で仕方なかったの」と。
 また、「でも、退屈だから人を殺したわけじゃないわ」とも。
 そして最後に、「あなたは、私と似ている。全てね。だから――

――あなたには、『切り裂きジャック』になる資格がある」

 と。


 10 魔法調査 


 朱雀の魔法調査は三日間にわたって行われる。
 理由としては、受ける生徒の規模(小中高全校)の大きさ、調査・検査の種類の多さなどが挙げられる。
 まぁ、つまり膨大な時間が掛かるというわけだ。
「ですから、効率良く回らなければ、後で呼び出されてしまうんですよ。先生方に」
 だから頑張りましょうね、と言ってニコニコしている美夜。楽しそうだ。
「まぁ、でもそんなに大変じゃないから頑張ろう!」
 とこれまたニコニコしてる秋奈。うん、いつも通り。
「普通にやれば?」
 いつも通りの無表情。うん、凪さんです。
「でも夏目君は外部生だからね、分からないことがあったらいくらでも頼ってくれよ?」
 歯をキラーンと光らせて微笑む新夜。爽やかだな、オイ。
「ちっ……庶民が……」
 睨むな弐村。不愉快だ。
 そして、
「はぁ……憂鬱だ」
 この後、厄介事が来るであろうことを予感し、多大な不安を抱えてる俺。
 このカオスメンバー(正確に言えば、高等部一年花の五人組とおまけ一人)で魔法調査の検査巡りをするのだ。
 つまり、俺の目の前で五者五様の態度でたたずむ一年トップの五人に分からないように『切り裂きジャック』――もといテロ組織を暴かなくてはいけない、ということなのである。
 では、そもそも何故魔法調査の最中に調べるかと言えば、これが一番のチャンスだからだ。
 ここでまた一つ疑問が出る。
 では何故チャンスなのか?
 答えは簡単。『切り裂きジャック』は学校関係者、おそらく生徒……かもしれないからだ。
 えーっと、確信はしてるが確証はないって感じ、かな?
 まぁ、確信の理由もいくつかあるが、流石にそこまで考える必要はないだろう。
 だいぶ頭の中スッキリしたし。
 ……その頭の中をかき乱す原因が残ってれば、意味ないんだけどな。
 俺は軽く嘆息してから、頭の中を乱す原因、もとい、周りの生徒から注目を集めまくる五人組を見る。
 すげぇ。周りの視線をものともせずに話してるよあいつら。
「さて、どこに行きます?」
「うーん、秋奈は特性検査したいな」
「いいけど……珍しいね、秋奈が特性検査受けるの」
「むふふ、ちょっとね?」
「……そういえば、少し使う魔法変えてたわね……」
「え? そうなの? 秋奈」
「うん! ちょっと強化系が上手く扱えるようになったんだ?」
「へぇ、凄いじゃないか」
「あっ! 新夜兄さん…………とアルフレッドはどこか希望はありますか?」
「僕は特にないよ」
「俺もねぇ」
「そうですか……じゃあ、良さんは?」
 そっか、魔法の特性検査もあんのか……なんてことを考えてた俺は突然の(流れ的には当然か?)問いにびっくりする。
 見ると、五人(一名は睨みつけてきたが)がこっちを注視していた。
 慌てて答える俺。
「え!? どこでもいいぞ、俺は」
 だって魔法使えないし。
「そうですか……じゃあ、秋奈の案の特性検査にいきましょう!」
 そう元気にかつお淑やかに言って歩きだす美夜。
 待ってよみーちゃんっ、と髪をなびかせ走る秋奈。
 やれやれと首を振り、ゆっくり追いかける凪。
 それを追う野郎三人。
 ふー、やっぱカオスだな。


 シンプルな外観にも関わらず見る者を驚嘆させる存在感。心弱きものは門を通ることすら許されぬであろう威圧感。壁に彫られ、今にも動き出しそうな印象を与える朱雀の秀麗さ。そしてそれらをうまくまとめあげ、違和感を感じさせない安定感。
 第二闘技場。
 前回の弐村との対決の時にチラッとだけ見た(片桐先生が少ししか説明しなかった)建物だが、間近で見ると凄い。なんか圧倒される。
 そして中に入り、今度は少し呆れてしまう。
「なんだこれ」
 中にあったのはいくつもの彫像。校章の朱雀をはじめ、いくつもの像が、なかなか広い玄関ホールに無数に置かれていた。他のみんなは慣れているのか、特に疑問は浮かんでいないようで普通に歩き過ぎてしまうが、俺にはかなりおかしく見えてしまう。なんというかすごく無意味な気がする。
 だがいつまでも見ているわけにはいかない。俺もそれらから目を離し、歩き出そうとする。と、
「あれ? もしかして、そこにいるのは夏目先輩ではないですか!?」
「うん?」
 俺の後方から不意に甲高い声があがった。
 踏み出そうした足を自然に引っ込める。さらに一緒に歩いていた五人も止まる。
 申し訳ない。
 そんなことを思いながらも、俺は声のあがった方――つまり後ろを見る。
 見えたのは、俺の後ろを歩いていた美夜と新夜、そして長い白銀の髪。
 水瀬愛歌。
 俺たちの後輩で、朱雀の中等部に所属する少女だ。同時に特待生であり、PSI候補生という才媛でもある。
 つまるところ俺とは真逆の人間ということだ。
 そんなワンダフル少女、愛歌は俺たちの方に小走りで向かってきながら口を開く。
「おはようございます! みなさん、どうしたんですか? ももももしかして、わたしと同じで特性検査を受けるんですか!?」
「はい。まぁ、受けるのは秋奈だけですけど」
 何故か興奮気味に問いかける愛歌と、それに苦笑しながら答える美夜。
 お互い敬語を使っているがそこに硬さはなく、仲のいい姉妹のようなに見える。
 なんだか、和むね。
 少女二人を見ながらほんわかしてると、前を歩いていた秋奈と凪、弐村が俺たちの方にやってきた。
 愛歌に気付いた秋奈が声を上げる。
「あれ!? あいちゃんだぁ! どうしたの? もしかして、秋奈と同じで特性検査受けるの!?」
「はい! 秋奈先輩と一緒です!」
「ええ!? 本気で!? 『本気』と書いて『マジ』って読む感じで!?」
「マジです!」
「……なんて会話してんだよ」
 騒ぐ秋奈と愛歌に、その二人に呆れる弐村。
 うん、ほんとなんて会話してるんだよ。少し弐村に共感しちまったじゃねぇか。
 俺がそんな思いを抱きながら騒ぐ二人を眺めていると、こちらも呆れ顔の凪が二人を注意する。
「二人してなに騒いでるのよ。小学生じゃないんだから」
「えー、いいじゃ?ん。せかっくの魔法調査なんだからさ?」
「そうです! 凪先輩もそんな仏頂面じゃなくて、もっと笑顔笑顔ですよ!」
「え、笑顔?」
 おお、珍しく凪が戸惑ってるよ。これは明日は雨だな。
 そんな俺の思いが顔に出たのか、こちらを睨みつけてくる凪。
「……何よ」
「え!? い、いやなんでもないです」
「……」
 すいませんでした! ほんとすいませんでした! だからその親の敵でも見るような眼で見ないで!
「……ちっ、まぁいいわ」
 結局三〇秒くらい睨まれ続け、ようやく目を反らしてもらえた。マジこええ。
 ふぅ、と俺が安堵の吐息を洩らす中、空気を読んだのか新夜が、
「さ、さあ中に入ろうか」
 と提案してきた。
 ……頼むからもう少し早く提案してくれ。感謝してるが。
 そんな風に思ったが口には出さず、ひとつ溜め息をつくだけにとどめ、俺はみんなの後を追い闘技場の中に入った。
 

 ◆伍塔凪side


 私らしくない。
 そう、私らしくない。
 私は第二闘技場の内部に入る扉を潜りながら、後ろを歩く夏目良を軽く見る。
 眉を下げ、困惑したような顔。
 一瞬、それが『あのバカ』と重なり、なんとも言えない感覚を私に味わわせる。
 ムカつく。イラつく。でも……。
「……ほんとっ、私らしくないわね」
 まったくいつまで私は、『あの愚兄』のことを引き摺るのかしら……。
 私は溜め息を吐き、もう一度後ろを見てから闘技場の中へと入っていった。


 ◆


 中に入ると、だだっ広い場内の中心に、我らが担任、片桐由美子女史が暇そうに立っていた。どうやら俺たちが一番に来たらしく、他に人影は見えない。
 片桐先生は俺たちに気付くと、ものすごく面倒くさそうに顔を歪め、
「随分来るのが早いんだな。他のから回ってくればよかったのに」
「僕たちが来なくても、他の人が来ますよ」
 苦笑いしながら新夜が答えた。続けて凪も口を開く。
「それにいいじゃない。どうせすることもなく暇していたでしょう?」
「まあな。それで? 誰が受けるんだ? とっとと終わらせたいんだが」
 悪びれもせずに、あっけらかんとして言う。本当にこの人は教師なんだろうか、と疑問が脳内をよぎる。
 とはいえ、俺も含めみんな慣れてしまっているので、特につっこまずに話を進める。
「秋奈がやる!」
「おー、壱川かぁ……よし、夏目、お前が相手してやれ」
「はい? ……いや、意味分かんないんですけど」
「だから、お前が壱川の特検の相手をやれ」
 そう言って首を横にふりふり。やれやれってことか、この野郎。いや野郎ではいないけど。
 当然納得できない俺はもう一度目の前の片桐先生に訊き返す。
「だから何で俺が秋奈の相手をするんですか!? 普通、先生がするでしょ!」
「そうですよ、片桐先生。いくら面倒くさくてもしっかりやらなきゃいけないんですよ?」
 俺の思いに同意したのか、援護してくれる美夜。
 てか、めんどくさいだけかよ! お前ほんとに教師か?
 俺の(てか、みんなの)呆れた視線に気付いたのか、片桐先生は慌てて言い訳を言い始める。
「ば、ばか、別にめんどくさいわけじゃなくて、ほら、人には適正ってものがあるだろ? あ、あたしはこう、人を試す的な? のが苦手なだけでだな、断じてめんどくさいわけじゃないぞ?」
 おい、そういうのはこっち見ながら言え。
 視線を宙に泳がしながら教師としてどうなの? と思わせるような発言をする片桐先生。よく見ると汗かいてるし、妙にそわそわしてる。
 この人嘘下手くそだなー。
 落ち着きのない片桐先生を見ながらそんな感想を抱いていると、
「いいじゃん、良くーん。おね……先生の言うとおり、秋奈ちゃんの相手してあげなよー」
 ……背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
 俺はその声の主に反応するべきかしばし考え込んだあと、無視しても無駄だろうと判断し、軽く溜め息を吐きながら振り向く。
 振り向いた先、いたのはやはりこの学校に来て一番仲の良い先輩、陸郷詩織先輩。
 つまり、この場に俺の朱雀での知り合い大集合ということですね、本当にありがとうございました。
 俺が内心で神様に皮肉を言っていると、見事なアルカイック・スマイルの陸郷先輩が俺にさらに言葉を掛けてきた。ちなみにアルカイック・スマイルは昔の彫刻とかに見られる芸術表現であって、人に使うものではない……はず。ようするに俺も勉強してるんだぜ! というアピールです、はい。
「まあ、良くんの気持ちも分からないではないけど、やっぱり先生の言うことだからさー」
 と微笑を苦笑に変え、俺の思いをやんわりと戒める。
 いやでも、
「俺が相手しても秋奈の特性は分からないんじゃ――」
「さあ! 壱川と夏目! 早く用意しろよー」
「え!? 話聞いてましたか、先生! 俺が相手しても特性はわから――」
「ほらほら、良くん早くしないと他の調査やら検査やら回れないよー」
「いや、だからですね――」
「りょうくん早くやろうよー」
「もういい」
 俺は何を言っても耳を貸さない三人(片桐先生、陸郷先輩、秋奈)にキレ気味に言う。あと語尾を伸ばすな。
 しかし、俺がキレたくらいでこの三人が動じるはずもなく、
「じゃあ、夏目の許可も出たことだし」
「秋奈ちゃんと良くんで」
「決闘だー」
「……は?」
 さらに理解不能な展開に持って行かれる。
 てか、どうして俺が秋奈の相手することが決まってるの? なんで?
「なんで?」
 思わず口に出してしまう。
 そんな俺のまっとうな疑問に、
「だってさ、りょうくん今『いい』って言ったじゃない」
 意味の分からない答えで返す秋奈。それに頷く年上二人。
 いや、言ってないよね。
 でももしかしたら無意識に言ったのかも、と不安に思い、念のため俺たちのやりとりを静かに見守っている美夜や新夜たちに視線を向ける。
 俺の視線に気づいた美夜たちは、各々態度で答えを示してくれた。
 美夜は真顔で首を傾げ、やがて頭を下げる。わかりませんってことだろう。
 新夜も手のひらを天井に向け、首をすくめる。美夜と同じくって感じか。
 凪は目があったら逸らされた。……泣いてもいいかな?
 弐村はこっちを見ようともせずに、横を向きあろうことかあくびしている。ぶっ飛ばしていいか?
 愛歌は苦笑しながら、見つめ返してくる。わからないってことね。
 とりあえず、俺が無意識に言ったわけではないようだ。
 自分が何もしていないと確認できた俺は、未だに騒がしい三人組に向き直り反論を口にする。
「いや、言った覚えがないんだが」
 その言葉に一瞬固まり、目をぱちくりさせる秋奈。あとの二人は何がおかしいのかニヤニヤしてる。
 しばしの間目をぱちくりさせていた秋奈だったが、やがて不満げに唇を尖らせると、これまた不満げに喋り出す。
「えー、りょうくん、たしかに『いい』って言ったよー」
「いや、言ってない」
「言った」
「言ってない」
「言った!」
「言ってない!」
「言ったよ、ぜぇったい言った!」
「一回も言ってない!」
「まあまあ、そんなに興奮しなーい」
「そうだぞ、お前ら少し高校生という自覚を持て」
 てめえらが原因だろうがあああああああああ!
 人事のように話す年上アホ二人に心の中でツッコミを入れる。あくまで心の中。これ以上ややこしい状況にしたくない。
 俺は口から出そうになるツッコミをなんとか飲み込むと、陸郷先輩と片桐先生の方に向く。
 二人はとても素晴らしい笑みを浮かべていた。なんとなく腹がたった。
 どうせこの二人に何を言っても無駄なんだろう。なら、さっさと終わらせた方がいい。
 そう考え、俺は不承不承ながらも首を縦に振った。もちろん、溜め息も吐きながら。


 他に生徒はいなかったので、邪魔されることなく、いの一番にできることになった。個人的はどうでもいいが、秋奈はすごく喜んだ。
 美夜たちが端の方に移動し、先生が俺と秋奈の間に立つ。ちょうど俺と秋奈の間は五メートル弱開いていて、先生はその中心に立つような感じだ。
 正直、やる気が湧かない。手を抜いてさっさと終わらせてしまおうか。そんなことを秋奈の笑顔を見ながら考えた。
「今回は特別に決闘方式だ。まぁ、弐村との時みたいにやればいいから」
 片桐先生がこちらを見ながら、確認するように言った。その手には薄いボードのような機械が握られている。どうやら検査で使う測定機らしい。
 気が向かないまま俺が頷くと、先生はボードを持っていない方の手を上げ、
「では、始め!」
 開始の合図をした。
 開始早々、弐村の時と同じように離れていく先生を待たずに、秋奈は仕掛けてきた。その形のいい艶やかな唇から言葉が紡がれる。
「Strengthening Level.1」
 主だった外見の変化はない。だが、分かる。この距離は危ない。今すぐ離れろ、と直感が囁く。
 それに従い、後ろに跳ぼうとしたところで、
「逃がさない」
 秋奈が床を思いっきり踏み砕いた。轟音が耳を貫き、体がよろめく。
 それでもなんとか跳ぶ。バランスを保ち、体制を整える。
 そして次の瞬間、俺の顔面に向かって拳大の瓦礫が飛び込んできた。
 それを右に体をねじり回避。顔のすぐ横を切り裂いて飛んでいく。背中からドッと汗がわき出る。
 数秒後、背後で凄まじい音が鳴った。おそらく今避けた瓦礫だろう。
 もちろん表情には出さない、が……。
 こええ! 絶対殺す気だったね、俺を。
 俺が表面上は涼しげに、しかし内心は違う意味の涼しさ(恐怖的な意味で)に震えていると、瓦礫を蹴り飛ばしてきた張本人が、足を上げた状態のまま俺に向けて笑顔を振りまいてきた。おい、その笑顔をひっこめろ。
「ごめんね、りょうくんー。でもちゃんと本気でやらないとだめだよ。すこしでも手を抜こうと考えたら……また病院に送り返すから」
 そう言ってコロコロと笑う。そしてそのまま足を下ろし、俺の方に走ってくる。俺は構えをとりつつ、いつでも動けるように足に力を込める。
 秋奈は距離を瞬時に詰めると、拳を固め、突き出してきた。
 それに対し俺は、自分の左手の甲に秋奈の手を当て、横にはじくことで突きを反らす。
 そのまま空いた右手で掌底を腹に放つ。ためを作った、全力の一撃。
 しかし、
「あれ?」
 何故か俺は宙に浮かんでいた。
 さらに美夜とか凪が逆に見えた。
 一瞬パニックになるも、すぐに状況を把握する。うーん、これは……投げられた?
「ッが!」
 直後、背中と後頭部に衝撃。
 一瞬、意識が遠のく。天井がぼやける。
 このまま寝たいな。
 そんな現実逃避気味な思考が頭の中によぎる。
 が、もちろん秋奈は許してはくれなかった。
「りょうくん、寝ちゃダメだよー。本番はこれからなんだからー」
 可愛らしい声でニコニコしながら近づいてきた秋奈は、そのまま俺の足首を持ってジャイアントスイング。
 ぐるぐるぐる。すげえ、ビュンビュン音がする。てか目が回る。
 そんな人事のように呑気なことを考えていた俺に急に解放感が訪れる。投げられたみたいだ。
 そのまま吹っ飛ぶ。文字通り手も足も出ない。
 数秒後、背中に衝撃が走る。そのまま背中が摩れる感覚。それが数秒続き、ゆっくりと止まる。
 どうやら床に着地したみたいだな。……背中からだけど。
 着地した体勢――つまりは仰向け――のまま、上に見える天井をぼんやりと眺める。
 本気でこのまま寝ちまいたい。……無理だよなぁ。
 背中の痛みに顔をしかめながら立つと、秋奈が二〇メートルくらい遠くいるのが見えた。つまりはそれくらい投げ飛ばされたってことなんだろう。
 予想外に戦闘慣れしている秋奈に驚きつつ(もちろん顔には出さないが)、それでもまだ甘いなぁ、と自分のことを棚に上げて評価してみる。
 うーん、たぶん、ケンカとか演習にとどまってるんだろうな。
「りょうくん、まじめにやってよー」
 と不満そうな声を上げ、眉を寄せる秋奈。
 つま先で床をトントン叩いてから、こっちに向かってゆっくり歩いてくる。
 そんなこと言われてもな。
「俺は本気でやってんだけどなー」
「嘘だよ、本気はそんなものじゃないよねー?」
 うそぶく俺を、秋奈は取り付く島もなくばっさりと切り捨てる。
 実際まったく本気を出していないのだが、だからといって本気を出してもいいのかと問われると首を縦に振ることはできない。『目』もあるし。
 はあ、まさに生殺しってヤツかね?
 とはいえ、いつまでもこうしていられないのもまた事実なんだけどな。
 ほんと、どうしようかね?
 そんな風に俺が考え込んでいると、こちらに歩いてきた秋奈が不意に姿勢を前のめりに傾けて、低い声で呟いた。
「どーしても本気出さないって言うんなら」
 その状態から一歩踏み出す。
 床が砕ける破砕音。
「秋奈が出せる状況に追い込まなくちゃ、ね!」
 その刹那。
 俺の目の前に、拳を後ろに引いている状態の秋奈がいた。
「は?」
 おもわず間抜けな声が出る。
 しかし秋奈はそんな俺に躊躇するどころか、笑みを浮かべてさらに拳を引く。
「だりゃ!」
 気が抜けるような掛け声。
 が、繰り出された拳は信じられない速度で向かってくる。
 かろうじて体を傾ける。
 そんな俺の顔の脇を通るゴウッという風切り音。いや爆音。
「ぐッ」
 当たってもいないのに体にはびりびりとした感触が伝わってきた。
 瞬時に体勢を立て直し、バックステップで距離を取る。
 なんとか五メートル近く距離を取り、秋奈が立っていた場所を見ると何が起こったのかよくわかった。
 まるで鉄球でも落ちたかのように割れた床が秋奈のいた位置に一つ。
 まさか……、
「強化魔法に……震脚からの縮地、か……?」
 とんでもないことやってくれるな、こいつは……。
 強化魔法は文字通り、自己を強化する魔法のこと。震脚は中国武術によく使われる動作のことで、足で地面を強く踏みしめることを言う。本当は踏みしめた時に音は鳴らないのだが、秋奈の場合は強く踏み過ぎたみたいだ。……普通はあり得ないが。
 それで縮地は長い距離を少ない歩数で接近する技術のことだ。
 秋奈はどうやらそれらを全部つなぎ合わせて使ったらしい。
 とてもじゃないが高校生ってレベルじゃない。
 これは……徒手空拳だけじゃきついな。
 でも『札』も、ましてや『アレ』も使えないしなぁ……。はぁ……憂鬱だよ、ちくしょう。
 俺が心の中で毒を吐いていると、秋奈が心配そうな顔でこちらを見つめてきた。
「どうしたの、りょうくん? 顔色悪いよー?」
 いや、お前の所為だから。
 完全に状況を把握できていない(あたりまえだけど)秋奈に若干辟易しつつ、とりあえずやることを決める。てか決めた。
 それをいつ実行に移すかタイミングを計りかねていると、秋奈が物騒なことを呟いた。
「まあいいや。ぶっ飛ばしちゃえばいいもんねー」
 また縮地を使うのか、体勢を少し低くしている。
 今しかないよな……はぁ。
 体勢を低くし今にも跳びかかってきそうな秋奈を尻目に、俺は突然体を翻し、彼女のいる方向とまったく逆方向に走り出した。
 突然のことに後ろから「え!? ふぇ!?」なんて声が聞こえるが無視し、美夜たちのいる方をチラッと見てから、目の前に迫ってきた扉を開けてその中に跳びこむ。
 そして扉を急いで閉じる。
「ま、待ってえええええええ!」
 扉越しに聞こえる秋奈の声に少なからず心を痛めつつ、まあ仕方ないよ、と自分を慰めてから、俺は闘技場から離れるために出口に向かい走り出した。

 俺の取った作戦。つまりは……、


 三十六計逃げるが勝ち。






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