夕日によって、紅に染まる世界。そこに一人の少女が佇んでいる。
 まるで絵画から切り取ったような美しさ。そこにいるだけで人を狂わせるような、そんな妖しさも持っている。
 少女は、走った所為で乱れた息を整えている俺に向かって優しく微笑む。
「お久しぶり。そんなに急いで来なくても逃げないわよ」
「……どうだか」
 こいつの言うことは信用できないからな。
 俺は一度深呼吸し、たったいま開けた屋上のドアを後ろ手で閉める。
 後ろで鳴るドアの閉まる音を聞きながら、目の前にいる少女(とはいっても屋上の端から端なので十五メートルくらい離れてる)を見つめる。
 足首まで届きそうな鮮やかな金色の長髪。夕日以上に紅く染まった赤目。透き通るような白く滑らかな美しい肌。人形を思わせるような冷たく整った美貌。抱きしめたら折れてしまいそうな華奢な体。そして全体を黒一色で統一したゴシック・アンド・ロリータ。
 俺の悪夢であり、『あの人』が俺に託していった『者』の一人。
 そう、こいつは……
「今までどこに行ってやがった? 殺人姫さつじんき
「ちょっと故郷イギリスの方にね。それと殺人姫じゃなくて静歌。静歌シズカ・アリア・ペンテクスよ」
 そう言って殺人姫――静歌・アリア・ペンテクスは妖艶に嗤った。


 12 殺人姫と切り裂きジャック


 薄暗くなった校内に足音が響きわたる。それはとても軽やかで、まるで幼子が校内を走っているような錯覚を引き起こす。
 そんなわけがないのに。
 トトトッとまた前方で響く。次は俺の現在位置より遠く離れた場所で。
 今度は階段か。
 俺は乱れた息を整えようともせずに、およそ百メートルくらい離れた位置にある階段に向かって全力疾走する。さっきから走り続けてる所為か、最初よりだいぶ速度が落ちていた。
 が、それでもまだまだ若い高校生だ。あっという間に目的地の階段に着いた。急いで周りを見渡す。なにもない。いや、正確には俺の探しているモノがない。
 ふと、上に続く階段を見る。すると視界に映る闇とは違う人工色の『黒』。
 それを見た瞬間、階段を一気に駆け上がる。階段は二段跳ばし。当然、呼吸はさらに乱れる。が、それを無視してひたすら上る。
 三階に着いた。ぐるりと辺りを見るが『黒』はいない。また逃げられた?
 おもわず意気消沈する。知らず知らずのうちに、ふうっと溜め息を吐いてしまった。
 耳を澄ませばなにか聞こえるかも、と思い息を潜めてみるが……聞こえるのは、校舎外から流れてくる帰宅途中の生徒の声ばかり。
 はあ、ともう一度溜め息を吐き、今度は息を整えながらゆっくりと歩き始める。
 残念ながら行くあてはない。探すモノはあるんだけどな。
「……あいつらには悪いことしたな」
 廊下の窓から見える薄暗くなった校庭をぼんやりと見ながら、途中で別れた三人――朝倉さん、神田さん、三千緒のことを思う。
 ヤツを見つけて、いきなり走り出した俺に、驚きながらも気遣いの声を掛けてくれた三人。それどころか、緊急事態だとわかったのか、手伝おうとまで言ってくれた。それに対し素っ気なく一言だけ返して置いていった俺。
 ……流石に「先に帰っててくれ」だけじゃ説明不足だったな。せめてもう一声かけとけば……。
 今さらのように三人対して、胸の内から後悔が湧き起こってくる。だが仕方ない。もうすでに済んでしまっていることだし、なによりこちらは任務なのだ。我が儘は言えない。
 そう頭で理解はしても後悔は消えてくれない。むしろどんどん押し寄せてくる。自分でもびっくりするくらいに。
 俺ってこんなに女々しい野郎だったのか、と軽く自己嫌悪したところで、
 タンタンタン。
 廊下の奥からリズミカルな足音が聞こえてきた。
 瞬間。
 俺は脚に力を込めて廊下を一気に駆け出した。


 校舎の最上階。つまり、屋上前の踊り場。そこに消えていった『黒』を追いかけてくると、屋上に続くドアがちょうど閉まるところだった。
 俺は急いでそのドアに飛びつくと、勢いよく開けた。
 光が溢れる。沈みかけの夕日が俺の目を差したのだ。目を細めて睨みつける様にして前方を見ると、紅く染まった屋上の光景がよく見えた。
 夕日に染まってオレンジ色になっているコンクリートの足下。錆もなく、まるで新品のような輝きを放つ鉄製のフェンス。そしてそのフェンスに寄りかかるようにして佇む『黒』。いや、一人の少女。
 少女は、自分を追いかけていた俺に対して優しく微笑む。
「お久しぶり。そんなに急いで来なくても逃げないわよ」
「……どうだか」
 俺がぶっきらぼうに返すと、少女はクスクス嗤い始める。見事な金髪の毛先が踊る。
 それを見ながら、俺は後ろ手で今開けたばかりのドアを閉める。後ろで鳴る閉まる音。それを聞きながら、俺は目の前で嗤い続ける少女を注視する。
 足首まで届きそうな鮮やかな金髪に、それと同じくらい目を引く紅く染まった瞳。透き通るような白い肌は、とても人間のものとは思えないほどの美しい。さらに華奢な体や冷たく整った顔立ちの所為か、どことなく人形のような雰囲気を受ける。もちろん、嗤っているからなのか、人形だと思うことはない。
 俺がそこまで観察したところで、今まで嗤っているだけだった少女が口を開いた。
「どうだったかしら? 私のサプライズ鬼ごっこは」
 そう言って、また楽しそうに笑みを作る。いやな笑い方だな。
「最悪だな。無駄に疲れた」
「ふふ、相変わらず素直じゃないわね。お姉さんの前でくらい本音を吐いたらどう? 遊べて楽しかったでしょうに」
「お前は俺より年下だ」
「男が細かいこと、気にしない方がいいわよ」
 ああ言えばこう言う。本当にいやなヤツだ。
 睨みつけてみるがやはりダメージはないようで、相手の顔は笑みを形作ったままだ。
 少しの沈黙のあとに、少女はフェンスから身体を起こし、顔に笑みを浮かべたまま優雅な足取りでこちらに歩み寄ってくる。ったく、どこのお嬢様だお前は。
 やがて俺の目の前(といっても五メートルくらいだが)に立つと、そこで足を止めた。
 先手必勝。ではないが、俺は少女が口を開こうとした瞬間に疑問を投げかけた。
「今までどこに行ってやがった? 殺人姫」
 その問いを聞いた瞬間、何故か殺人姫――少女が呆れたように首を振った。おまけに小さく「やれやれ」と呟いている。……なんか腹たつな。
 俺が、変なこと言ったか? と考えていると、少女が呆れた表情のまま、
「貴方……、まあいいわ。それより貴方くらいよ、私のことを未だに殺人姫って呼んでるの」
 と苦笑する。さらに「まあ、切り裂きジャックと呼ばれるよりは良いけどね……」と付け加えてくる。
 ふーん、切り裂きジャックって呼ばれるの嫌なのか。俺も嫌だけど。まあ、それよりも、だ。
「結局どこに行ってたんだ?」
 そう、まだこの問いに答えてもらっていない。
 俺の再度の問いに、ぶつぶつ呟いていた少女がこちらに視線を向ける。
 その赤目で俺の内心を見抜こうとするかのように、じっと見つめてくる。心なしか、その目に何故か躊躇の色が見えた。
 しばらく沈黙が続く。俺も少女も動こうとしない。
 不意に少女が溜め息を吐いた。かと思えば、次の瞬間にはまた口元に笑みを浮かべている。
「ふう、心配するだけ無駄ってことかしら。まあ、私らしくもないしね……」
「ん、何だ? 聞こえる様に言ってくれよ」
「なんでもないわ。さてどこに行っていたか、だけどね……」
「おう。早く言え、殺人姫」
 と、ここでまた少女は口を止める。もう一度、俺の顔色を窺うようにしたあと、
「ちょっと故郷イギリスの方にね。それに殺人姫じゃなくて静歌。静歌・アリア・ペンテクスよ」
 そう言って少女――静歌・アリア・ペンテクスは妖艶に嗤った。

 
 どうしてか分からない。気づけば身体が勝手に動いていた。
 静歌が嗤った一瞬の間の後、俺は彼女の顔面に向けて回し蹴りをお見舞いしていた。自分でもびっくりするくらい自然な動作で。
 しかし静歌の方は蹴られることがわかっていたらしく、嗤ったまま綺麗に蹴りをかわす。さらにお返しと言わんばかりに、かわしながら鈍く光る鉛色のナイフを投げてきた。それはあっという間に俺に接近し、軽く頬を裂いて後ろのドアに突き刺さる。背中に嫌な汗が滝のように流れ出る。鉄のドアに突き刺さるとか、どんだけ強く投げてんだよ!
 俺は本能の告げるままに横に跳ぶ。瞬間、俺のいた位置に鉛のナイフが飛来する。一本ではない。ざっと見、十本くらい一気に飛ばしてくる。そのどれもが鋭い風切り音を発しながら飛んでくるんだから始末に悪い。
 俺は内心舌打ちながら、静歌との距離を素早く詰める。眼前には余裕綽々といった表情の静歌。その顔に向けて拳を打ち下ろすが、手応えがまるでない。
「『アレ』を使わずに戦おうなんて、私も舐められたものね」
 背後に響く死の足音。振り向くことをせずに前に跳ぶ。前転の要領で勢いをつけながら立ち上がり背後を向くと、ナイフを片手に持ちながら馬鹿にするようにニタニタと嗤っている静歌がいた。少しイラッとする。しかも立位置が逆転してしまった。
 背後から夕日が強く俺たちを照らしていた。人形のような均整のとれた顔がこちらを馬鹿にするように見ているのを見ると、本気で腹が立つ。しかしそれを無理矢理抑え込み、冷静になるために深呼吸する。もちろん油断なく静歌を警戒しながら。
 一、二回深呼吸するとすぐに落ち着くことができた。そのクリアになった頭で素早く思考する。
 どうすればいい?
 どうしたらいい?
 どう動けばいい?
 躊躇っている余裕はない。躊躇っている理由もない。なら……。
 瞬間的に次の行動を起こす。この学院に来てからまったく使っていなかった、でも常にベルトに挟んであった『アレ』に右手を伸ばす。同時に空いている左手で制服のポケットに入っている携帯電話デバイスを掴んで引きずり出し、使う魔術を選び、地面に叩きつける。青い六芒星ヘキサグラムが屋上の床に浮かび、そこから生えたでかい刃が恐ろしい速度で静歌に迫り数センチ手前で停止し、俺が『アレ』を静歌に向けた。
 それに対し静歌はまるで焦ることもなく、それどころかこちらを憐れむように見やり、ため息交じりに口を開く。


「相変わらずみたいね。『The Killing Fields』?」


 その瞬間。
 こみ上げる吐き気と共に目に映る全ての世界がブレて、俺は意識を刈り取られた。


 ◆


 『僕』、いや俺は走っていた。満月の光に照らされた街の中をひたすら疾走していた。目的地はない。
 ぼんやりした意識。それと相反するようにひたすら走り続ける身体。とも合わない二つを持って、ひたすら邪魔なものを消し飛ばしながら走っている。
 およそ十分くらいだろうか? ひたすら走って走って走ったあと、不意に足を止めた。別に疲れたわけではなく、走る意味がないと気付いたから。
 それでも未だに頭は上手く働いていなくて、なんとなくふわふわした浮遊感だけを感じている。なんとなしに辺りを見渡すと、そこが街外れの商店街だと気付いた。よく見ると、一週間前に『御祈みき』と買い物に来た服屋がある。
 なんとなくその店に近付く。月光に照らされたその老舗の服屋はなかなかの風格があった。ガラスケースの中に入っているマネキンも、幻想的に見えてどことなく魅惑的だ。さらに近付く。今度はマネキンの着ている服を見る。透き通るような滑らかさを持っているシルク。これは『御祈』が欲しいって騒いでたやつだな……。
 さらに近付く、とそこで気付いた。ガラスに赤い何かが混じっている。なんだこれ。
 そう思い、さらに近付く。そして浮かび上がる自分の姿。
 赤い。
 紅い。
 朱い。
 全身が赤い。なにもかも赤い。どうしようもなく赤い。
 『御祈』が選んでくれた少し大きめの黒のコートも。かえでがぶっきらぼうに渡してきた味気ない灰色のマフラーも。アレンとお揃いで買ったお気に入りのジーンズも。密かに自慢だった艶のある黒髪も。
 全部。全部全部全部赤く染まっていた。
 なんだ、これ……?
 愕然とし、目を見開く。上手く考えられない。なんで? どうして、こんな状態に?
「うっ!」
 不意にぼんやりとしていた意識が回復する。瞬間、鼻につく嫌な臭い。手には何かぬちゃぬちゃとした不快な感覚のものがついてる。
 もう一度ガラスに映った自分を見る。
 やはり赤い。赤すぎる。これは……血?
 認識したとき、知覚していたものの正体がわかった。
 これは血だ。服についているのも、髪を染めているのも、手に付着した奇妙な感触のものも全部。全部、血だ。
「っ……うぁ……!」
 無意識のうちに身体が後退する。
 別に体中が血塗れなことに臆したわけではない。いや、それどころか、血塗れになるのは慣れてる。
 だから今さら血に恐怖はしない。
 俺が恐怖を感じたのは……、
「う、うわああああああああああああああああああああああああああああ!!」
 ガラスに映っている自分。
 そう、血塗れになりながらも嬉しそうに、本当に嬉しそうに嗤っている自分の姿に、俺はどうしようもなく恐怖した。


 ◆


 目を見開く。一瞬前まで俺をうならせていた悪夢かこは、あっという間に霧散した。
 すこしの間硬直し、
「……はぁ」
 その事実に安堵する。同時に深くうんざりする。
 横になっていたベンチから身体を起こすと、兎が餅でもついていそうなまんまるのお月さまが見えた。雲ひとつない空の所為なのか、かなり神秘的に見える。夜の校内(とはいっても校舎外ではあるけれど)から見る月ってのはなんとなく印象が変わる。
 俺は、どうして寝てたんだ、と考えて、静歌に気絶させられたことを思い出す。あたりを見回してもヤツの姿は見えず、代わりに校舎と整えられた芝生に、舗装された道といった普段の学院の姿しか確認できない。俺が気絶してる間に逃げたのかな。
 時間がいまいち把握できないが、長い間横になっていたようで身体がガチガチに固まっていた。ベンチから立ち上がり、身体を伸ばす。背伸びに屈伸、あとは手首を回したり。そんなことをしていると、丁寧に並べられたレンガの道をコツコツと音を立てながら歩いてくる人影が一つ。
 警備員かな、と軽く身構えると、
「あら起きたの」
「……お前か」
 夜にまぎれるような黒のゴシック・アンド・ロリータを身に纏った静歌だった。何故か手には缶ジュースを二本持っている。これを買いに行ってたのか。
 静歌はこちらの視線に気づいたのか、軽く微笑むと缶ジュースのうちの一本をこちらに放ってくる。綺麗な放物線を描いたそれは一寸の狂いもなく俺の手に収まる。冷たい。どうやら冷えたやつを買ってきたらしい。四月なんだから夜は肌寒いんだけどな。
 とはいえ買ってきてもらった身である以上文句は言えない。俺は「ありがとう」とジャスチャー混じりに伝えて、ラベルを見る。昔から幅を利かせている大手会社の缶コーヒーだった。缶を開け、飲んでみるとコーヒー独特の苦さが口いっぱいに広がる。不味い。
 しばらく、ちびちびとコーヒーを飲み続ける。静歌も不気味なくらい沈黙を守りながら缶に口をつける。お互い視線は合わせない。
 やがて缶の中が空になる。これどこに捨てようか、と考えていると静歌がゆっくりと口を開いた。
「まだ駄目なのね。うなされていたわ」
 思わず静歌の方を横目で見やる。
 が、静歌は整った眉ひとつ動かさずに缶ジュースを口に運んでいた。やはりこちらを見ていない。まるで興味ないとでも言うように。
 俺は静歌から視線を外し、顔を正面に向ける。
「まあな」
「ふーん、意外に女々しいのね」
「……うっせ」
「まあ、知ってたけどね」
 それっきりまた黙り込む。俺も喋ろうとは思わない。
 沈黙が横たわり、俺はすることがないのでなんとなし空を見上げる。
 暗い空にはいつの間にか雲が出ていて、月が半分近く隠れてしまっていた。兎も綺麗に半分になってなんだがよく分からない模様になっている。穏やか、というよりは生ぬるい風が頬を撫でる。
 気持ち悪くなって視線を戻すと、静歌がこちらを見つめていた。見つめるというよりは食い入るようにガン見(死語?)していた。
「何だ?」
「……」
 反応なし。これは寂しい。というよりつらいですよ、静歌さん。
「おーい」
「……」
 やっぱり反応なし。何故か視界がかすんだ。
 めげずに三度目のトライをしようと口を開いたとした瞬間、
「帰るわよ」
 静歌はくるりと背を向け校門の方に歩き始めた。その行動に唖然とし、数秒後になんとか声を掛ける。
「お、おい!」
「五月蠅い、早く来なさい」
「いやいや、どこ行くんだよ」
「貴方の家よ」
「はあ!?」
 何言ってんですか、この人は。
 俺の疑問を無視して静歌は確かな歩みレンガ道を踏みしめていく。迷いの欠片もない。
 しかも、衝撃はこれだけではなかった。
「言い忘れたけど、今日から貴方の家にお世話になるわ。これからよろしくね」
 さらに混乱する。もうわけわかんねぇ。
「え、ちょ、は、なんで。えっ、なんでなの?」
「いいから。家に着いてから説明するわ」
 できれば今してほしいんだけど。
 当然の如く俺は静歌に説明を要求。だが静歌は「いいからいいから」の一点張り。会話になりません。
 なおも追及しようとすると、「いいから、つ・い・て・こ・い」とダガーナイフを俺の首筋につきつけてきた。もう駄目だ、こいつ。
 結局俺が折れて家に連れて帰るまで――二十分近く口論し続けたのだった。

 
 ◆静歌side


 一歩踏み入れて抱いた感想は、「殺風景」の一言に尽きた。
 おそらく手を加えていないであろう白い壁に、ポツンポツンと寂しげに置かれている少量の家具たち。インテリアなんてものがまるで無視されていて、おまけに彼が就寝時に使っているであろうベッドの上には、無造作にも銀弾がむき出しの状態で投げ出されていた。台所の方を見ると、使われた痕跡のある皿や鍋が水につかっており、少なくとも独身男性が陥りやすいカップ麺やコンビニ弁当だけの生活はなんとか回避しているようだ。とはいえ、それがさらに殺風景具合を増長させているのは言うまでもない。
 私が周りを無遠慮に見回していると(一応自覚はある)、彼がそわそわしながら椅子を勧めてきた。
 特に断る理由がないので、彼が勧めてくれた席に腰を下ろす。と、彼がまだ買って間もないであろう新品の木の机を挟んで、私の対面に座る。
 しばし沈黙。どちらも喋らない。こういうのを文学的に表すと、空気が死んでいると言うのかしら?
 やがて沈黙が耐えられない……というよりなかなか話さない私に対して我慢できない、というように、彼が話し始める。
「あのさ、どうしてお前は俺んちに来たの? というか何でここで世話になる予定になってるの? そもそもどうして日本に来たの? 何で一年も前に俺らから逃げたわけ? てかさ、あの、……なんか喋ってください」
 続けざまにぶつけてくる質問。そのほとんどが今の私には答えられない。いや、答えようと思わない。
 彼の質問を無視し沈黙を守っていると、私に喋る気がないのが分かったのか、彼はまた押し黙る。むっつりと顔をしかめ、拗ねたように前髪を弄っている。その仕草が一年前と変わっておらず何故かほっとした。
「……日本ここに来たのは清算よ」
「は?」
 私がいきなり話し始めたのに驚いたのか彼は面食らう。口をポカンと開けて固まっている姿はなんだか面白い。それにしてもそんなに驚くようなことかしら。
 少しの間硬直し、慌てて問いかけてくる。
「いや、それだけ言われても困るんだが!?」
「それだけって言われてもねぇ。本当にそれだけだし」
「それだけってお前…………まぁいい。良くないけどいい」
「そう? 助かるわ」
「……はぁ。じゃあどうして俺んちに来た?」
「言えないわ」
「何で俺が世話する予定になってる?」
「言えないわ」
「一年前に俺らから逃げ「言えないわ」……そうかい」
 はぁ、ともう一度溜め息を吐き、彼は目を瞑って背もたれに寄りかかる。椅子がキィ、と悲鳴を上げる。
 またまた沈黙。することがないので、目を瞑り微動だにしなくなった彼を見やる。
 お世辞にも綺麗とは言えない煤けたような黒の髪。まるで乾いた血のような色にも見えるその髪は、一年前に私の見た黒曜石のような艶がまるでなくなっていた。そのことを残念に思いつつ、視線を下げる。今度見えたのは整っているのかいないのかよく分からない顔。見ようによっては二枚目にも普通にも見える。いや、本来は二枚目なんだろう。何せ、弟は絶世と言ってもいいほどの美少年なのだ、その兄である彼が不細工だとは思えない。ということは……。
「やっぱり貴族って恐ろしいわねぇ……」
「ん? なんか言った?」
「いえ、なんでもないわ。それより、話があるのだけれど」
「……おい」
 何故か不満そうな顔をする。どうしてかしら。
 私がそのことを聞くと、彼は刺々しい表情で、「人の質問に答えずに、自分の問題だけ解決しようとするのは虫のいい話じゃありませんかね、静歌さんや」と言った。
 なんだそんなこと?
「大丈夫よ、貴方にも関係あることだから。むしろ貴方が一番関係あるわね」
「は?」
 彼は眉をひそめ怪訝そうな顔をする。
 その表情に吹き出しそうになりながらも告げる。


「ふふ……例えば、今回の切り裂きジャックは私の生き別れた姉、と言ったら……どうする?」


「……は?」
 顔が引きつった。やっぱり面白い。


 ◆


 前からおかしい奴だと思っていたが、これは極め付きだと思う。
 何がおかしいって今俺の目の前で微笑んでいる女がおかしい。
 だっていきなり、自分はテロリストの妹です、って言い始めたんだぜ? これがおかしくなくて一体何がおかしくないんだ。俺の頭か?
「どうしたの、そんなキモチワルイ顔して?」
「キモ……いや、お前がおかしいこと言い始めたから驚いたんだよ」
 あとキモチワルイとか言うな。
「いやだからって今の顔は……」
「気にしないでくれ」
「でも凄い顔だっ「もういいよ! そんなに何回も言わないでくれる!?」
 どんだけしつこいんだよ。相変わらず嫌なヤツだな。
 静歌はニヤニヤしながら、こちらを見てる。その笑みを見て俺は確信した。
 こいつ、Sだな。
「それで? どいうことなんだ?」
「何が?」
「いや、お前の姉の話だよ。今回の切り裂きジャックなんだろ?」
 話がそれたのを戻そうと俺が尋ねると、静歌はむかつく笑みをひっこめ、俯いた。
 少し視線を落とした所為か、その長い前髪が妖しげに輝いていた紅い瞳を隠す。その姿と黒いフリルがふんだんにあるゴスロリが奇妙なくらいマッチして、B級ホラー映画に出てくる人形のような不気味さを湛え始める。
 沈黙が続く。
 またもや静歌が黙ってしまったので手持ち無沙汰になった。なんとなしに周りを見渡すが、あるのは普段使っている自分の味気ない部屋が広がっているだけだ。
 ちょっと自分の部屋の色彩の薄さに頭を痛めながら視線を静歌に戻すと、ギョッとした。
 紅く輝く瞳が、滑らかな金髪の奥から覗いていた。やがて、今まできつく結んであった口が開く。
「……今回の切り裂きジャックは私の姉。でも、私は姉のことをほとんど知らない」
「?」
 思わず首を傾げる。
 その俺の様子を見て、静歌は溜め息を吐いた。
「はぁ……貴方も知ってる通り、私は三年前に切り裂きジャックとして貴方達に捕まったわ」
「うん。俺と『あの人』……『御祈』で捕まえたから、よく、覚えてるよ」
「そうね、貴方達二人だったものね……それでその時、私のお母様に会ったのを覚えているかしら?」
 静歌に言われて記憶の中を探る。すると一人の女性が浮かび上がってきた。
「ああ、……あの人」
 記憶に残っていたのは、不思議な雰囲気のある壮年の女性。長い黒髪に現在の英国イギリスでは珍しいアジア系の整った顔立ち。大和撫子と呼ぶのがふさわしい気品に満ち溢れていた人。
 俺は記憶の片隅に残っていた名を呟いた。
「確か……凛歌りんかさん、だよな?」
「そう。あの女性ひとよ」
 母親をあの人呼ばわりですか。まぁ、俺も人のこと言えないが。
「で、凛歌さんが何か関係してるのか?」
「ええ。さっき私は故郷に行っていたと言ったわよね」
 相槌代わりに一つ頷く。
「その時に母に会いに行ったの。そうしたら私と姉のいろいろな話を語ってくれたわ。私の父親、姉の父親、母が何をしていたか、父親達がなにをしているか。うんざりするような話を沢山ね。
 でもその中にね、興味深い話が一つあったの」
 姉の話よ、と彼女は言った。続けて微かに声音を落とし、
「私には一歳年上の姉がいるらしいのよ。とはいっても血の繋がりは半分しかないらしいけど。どうやら父親が違うみたいね。まるで漫画みたいでしょ? でもそれだけじゃないわ。一番重要なのはその姉が朱雀ここにいること」
 ここで言葉を切り、俺の顔をうかがってくる。
 俺は続きを促す意味も込めて、それで? と尋ねた。
「姉は少し前……と言っても三年近く前だけど、その頃から英国から日本に移り住んでる。姉の父親と一緒にね。まぁ、母と姉の父は、なんというか、ねぇ? つまり、行きずりの恋というか、火遊びというか、そんな感じの関係だったらしくて……」
 と言葉を濁す静歌。
 なるほど。
「法律上では何の関係もない赤の他人ってことか」
「そういうことよ。それで姉と姉の父親だけでこちらに移り住んでから、姉は魔法の才能を見出された」
「で、朱雀に入学か」
「ええ」
 ということは、俺の朱雀の学校関係者が黒って推理は正しかったってことか。ふむ、俺の頭もまだまだ捨てたもんじゃないな。
 自分の推理が当たったことに内心ガッツポーズを決めていると、不意に一つの疑問が頭の奥から浮かび上がってきた。失礼な質問かもしれないと思ったが、考えてみると、俺と静歌はいまさらそんな気を使う間柄ではなかったので普通に質問をぶつける。
「お前はなんで姉と一緒に日本に行かなかったんだ? 知らないと言っても凛歌さんは知ってるはずだろ。なら凛歌さんに教えてもらったんじゃないか?」
「うん、父親代わりになってくれる人がいるっていう話なら聞いたわ。でも行く気にならなかったし、それに教えられてからすぐに戸籍上死亡扱いになったから、私」
「ああ、そっか。そういえばそうだな」
 こいつは俺たちに捕まったときに死亡扱いになったんだっけ。生きてるからよく忘れる。
 俺が、そういえば『参崎さんざき良夜りょうや』名義では俺も死んでるんだっけと思いだしていると、静歌が髪を払いながら器用に片目だけ瞑った。再び話し始める。
「私の話はわきに置いておいて姉に話を戻すわよ。
 朱雀に入学したといっても姉は普通に他の生徒と同じように生活していたらしいわ。でもその才能はその他の生徒たちとは違った。そこを」
「テロリストたちは目をつけた」
「そう。そこから先はよくわからないわ。甘い言葉で騙したのか、力で脅したのか。どちらにせよ、姉は手伝うことになった」
 ここで静歌がニヤリと嗤う。
「身内に犯罪者がいたら嫌でしょう? だから止めに来たのよ」
 お前も犯罪者だぞ、一応。
 でもこいつがここに来た理由がわかった。
 つまり、


「テロリスト潰しを手伝ってやるからうちに泊めろと?」


 静歌はひまわりのような笑みを浮かべた。


 ◆少女side


 朱雀から数百メートル近く離れた位置に二つの建物がある。
 一見ただの高層マンションだが、両方とも朱雀に深く関係している建物だ。
 いわゆる、寮である。遠くから通っている生徒や海外からの留学生をもてなすための寮。
 濃淡の青の壁の男子寮。それに一本道路を挟んで建つ薄い桃色の女子寮。この二つが朱雀エルフィード学院の保持する寮だった。
 どちらの寮も警備は世界最高水準であり、入れるためには音声パスワード、指紋、さらに生徒一人一人に配布される身分証明カードを専用のカードリーダーに通さないと入れない。さらに入口、裏口には二十四時間体制で警備員が張り付いている。
 凄いのはもちろん警備だけではない。
 寮は一つ一つの部屋が広く大きく、さらに豪華なシャンデリアや何千万もする家具が置いてある。その広さや豪華さに初めて来た者は唖然として小一時間固まってしまうほどである(とはいえ、世界中から留学生が来ており、その中には王族やら貴族の子も混じっているため、驚かない者も多い)。


 深夜。そんな女子寮の中の部屋の一つに一人の少女がベットにうつ伏せで寝転がっていた。暗闇の中、白く触り心地の良いシーツをギュッと握って皺を作っている。
 少女は焦り、イライラしていた。それは手際の悪い自分に対してであり、同時になかなか尻尾を見せないあの男子生徒に対してだ。
 一日付いて回ったにも関わらず、あの少年は尻尾を見せるどころか途中から自分の追跡を振り切ったのだ。当然焦るし、プライドも傷ついた。
 あの少年――夏目良、いや参崎良夜は少女にとって現段階では最も注意するべき人物だった。他にも何人か計画を邪魔しそうな人間はいるが、その中でも良夜は抜きんでて危険な人物だ。計画を頓挫させるという意味で。
 もちろん計画が失敗するわけがない。失敗するはずがない。
 しかし万が一という可能性があるのもまた事実。不安の芽は摘み取っておきたい。
 とそこまで考えたところで、自分がギリギリと歯軋りしているのに気がついた。ふぅ、と力を抜きくるりと回って仰向けになる。
 光がないのでなにも見えない。それでも少女には良夜の顔が暗闇の中から浮かんで見えた。
 ……もやもやする。
 目の前にいないのに考えてしまうなんてまるで恋だな、と少女は自分を嘲笑する。
 そんな感情は昔に捨ててきたはずなのに。
 それからも少女がぼーっとしていると、暗い部屋に突然ピリリと音が響き渡った。
 枕元を見ると、案の定携帯の着信だった。連絡してきた相手を見て、思わず顔をしかめる。
 一つ嘆息してから体を起こし、通話ボタンを押す。
「もしもし」
「やあ。寝ていたかな? 起こしてしまったのなら謝ろう」
 相変わらず不快で五月蠅い。
「そう思うなら早く要件を言ってくれる?」
 皮肉る。
「わかったよ。とりあえず明日の計画は今日と同じく『死神』参崎良夜に張り付いてくれたまえ。他の指示は追々連絡する」
「……それだけ? なら切るわよ」
 携帯から耳を離し通話を切ろうとする。
 と、
「ちょっと待ってくれ」
「なに」
「実は妙な相手が潜り込んだ」
 早口で捲し立てる様に話してくる。が、大した情報ではなかった。
「それが?」
「いや、こんなタイミングで朱雀に侵入してきたからな。危険があるかもしれないだろう?」
 相手は馬鹿にしたような声音で言う。言外に「そんなこともわからないのか?」と言っているようだった。
 その態度が少女のイラつきを加速させる。
「例えどんな相手でも邪魔すれば殺す」
 少女が低く唸るように言葉を吐き出す。
 シーンと一気に空気が固まる。音が消える。
 電話の相手は殺気に当てられたのか、何も言わない。
「切るわよ」
 相手の返事を待たずに切る。さらにまた掛ってこないように電源もオフにする。そこまでしたところで少女はやっと一息入れた。
 しばらく暗くなった液晶画面を眺め、枕元に放る。
 それからまたうつ伏せで倒れこむ。ギシギシとベットが悲鳴を上げた。
 やがて静まり返る室内の中で、少女は一言静かに呟いた。
「みんなみんな殺してやる」


 夜は更けていく。






(次話へ)

(前話へ)

目次